訳者の私的画像集7


FBIアカデミー入校記念

 訳者は1990年6月23日(土)から6月29日(金)の間、アメリカ合衆国バージニア州クランティコのFBIアカデミーで開催された国際シンポジウムに出席する機会に恵まれた。

 AFTE(銃器工具痕鑑定者学会)の第19代会長を務めたボビー・ブラックバーンが、当時FBIアカデミーの副所長であり、ボビーから特別に招待されたのである。シンポジウムの表題は「大規模災害の法科学的視点と犯罪現場の再構成(International Symposium on the Forensic Aspects of Mass Disasters and Crime Scene Reconstruction)」という長い題名であった。そもそも、二つのテーマが合わせられていたことから、その分長くなって当然であった。

 ボビーは、私のために、このセミナーの開催時期を、AFTEのオマハセミナーの翌週に設定してくれた。そのため、一旦日本に帰国することなく、オマハからワシントンへと直接移動することができた。

 FBIアカデミーは、日本の警察大学校と類似した教育機関である。FBIとアメリカ国内の法執行機関の新人エージェントの教育をする初任科研修、すでに警察業務を行っているエージェントに対する現任科研修や特定分野の専攻科研修、それにナショナル・アカデミーとからなっている。ナショナル・アカデミーはアメリカの警察関係者以外の研究者や外国人も参加できる。国際シンポジウムはナショナル・アカデミーの枠で行われた。

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 FBIアカデミーは一般公開されていない。ということは、その内部を許可なく写真を交えて紹介することはできないので、持ち帰った記念品を中心に紹介する。

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 これは、FBIナショナル・アカデミーの記念楯である。

 中央には、アメリカ国璽に使用されている白頭鷲(bald eagle)が配されている。白頭鷲の頭が白くないが、その右足の爪ではオリーブの枝を、左足の爪では13本の矢をつかんでいる、その下に赤と白の13本のストライプの旗が敷かれている。13はアメリカ建国時の州の数を示している。

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 その上にはナショナル・アカデミーを示す「NA」の文字と、「FBI NATIONAL ACADEMY」の文字が円形に配されている。

 その下には、ナショナル・アカデミーのモットーである「知識・勇気・高潔(KOWLEDGE COURAGE INTEGRITY)」が円形に書かれている。このモットーは後で説明するFBIのモットーとは少し異なる。その下にある三つの星は、たぶんこのモットーに対応して配されているのであろう。

 FBIナショナル・アカデミーのプログラムは、月曜日から木曜日に組まれており、その直前の土曜日から日曜日の間に入校し、金曜日の朝出発することになっている。オマハを土曜日の朝に立って、土曜の午後にワシントン・ナショナル空港に着き、そこからバスでアカデミーに移動した。

 アカデミーに入ってすぐのジェファーソン・ドミトリーという宿舎で入所手続きをした。そこでIDバッジを受け取る。このバッジを付けていないと所内の通行ができない。このバッジを示すことで、入所期間中カフェテリアで食事が支給される。ドミトリーは3棟あり、ワシントン、ジェファーソン、フランクリンとファウンディング・ファーザーの名称が付けられていたと記憶している。入所者の格によって、割り当てられるドミトリーが異なったようである。

 ジェファーソン・ドミトリーは、廊下の両側に二人部屋が並んでいた。二つの二人部屋は、その中間にあるバスルームで連結されていた。つまり、4人で中央にあるバスルームを使用することになる。バスルームには、シャワーが二つとトイレと洗面台が一つあったと記憶している。譲り合わないと、朝は混雑することになる。

 幸い、訳者は二人部屋に一人で泊めさせてもらえたので、朝は3人でバスルームを共用した。バスルームを隔てた向かいの二人部屋の物音は良く聞こえ、「あの東洋人はいびきがうるさい」と話している声が聞こえてきた。

 講師用には、バス・トイレが付いたホテル並みの一人部屋が用意されていた。

   入所すると、簡単なオリエンテーションの後に、ユーティリティーの配布所に行列して毛布と枕を受け取り、部屋に入ってベッドメークした。

 入所当日、夕食が食べられなくて大変だった。土曜日の夕食は午後5時から6時半までで、入所手続きをしている間にカフェテリアは閉まってしまった。

 食事をするカフェテリアは授業時間に合わせて営業されていた。授業は月曜日から金曜日まであるが、金曜日の夕食からは週末モードとなる。週日は朝食が午前6時半から7時45分、昼食は午前11時15分から午後1時30分、夕食は午後5時から午後7時半までである。この時間は、国内のたとえば警察大学校や科警研の研修所の食事時間と大差はない。ただ、FBIアカデミーでは、車がなければ夜の外食は難しいという点が異なる。

 FBIアカデミーでは、入校生の親睦と息抜きができるボードルームが授業の終わる午後4時半から10時半までカフェテリアの横で営業されていた。金曜日と土曜日は午後11時まで開いていた。ただ、ボードルームはビールとスナックが中心で、腹もちの良いものはピザしかなかった。

 1990年当時、国内でも外食ピザを食べたことがなく、ピザと注文すればイメージしたものが出てくると思っていた。トッピングという言葉も知らなかったところで、ピザを英語で注文するという羽目に陥った。トッピングのメニューはなく、ピザの知識が全くなかったのでどうしてよいのか分からなかった。戸惑っていると、後ろに並んでいる人が適当にトッピングを注文してくれ、おいしいピザが食べられた。その後、その親切な人とビールを飲みながら盛り上がったことは言うまでもない。

 アメリカでの旅行に慣れてきてからは、飛行場でパンを買うようになった。当時は、飲料水も食べ物も一切持ち歩かずに旅行していた。

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 これはFBIアカデミーの購買部(Academy PX)で購入したスポーツウエアである。PXはカフェテリアとボードルームの間にあったように記憶している。

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 集団で運動するときなどは、入校生は着用を義務付けられており、費用は個人あるいは派遣元が負担することになっていた。シンポジウムではそのようなプログラムはなかったが記念に購入したものである。

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 左胸に「FBI Academy」の刺繍が入っている。

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サイズはSmallでないと訳者の体格には合わなかった。

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ポリエステルとコットンの混紡で、着心地は良く、気に入っている。

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 これは、ウオーム・アップ・ジャケットである。冬場の訓練では必需品である。6月の入校だったので不必要ではあったが、二度と来ることはなかろうと思い購入した。

 前は、5個のスナップで止める。袖口はゴムが入っているが、裾は紐で縛るタイプだ。ただ、縛って着用することはほとんどないので、紐が邪魔になるので予め短く結んでしまっている。

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 下着、靴下、帽子、水着、手袋、靴、スーツ、コートなど各訓練コースに必要な衣服はPXですべてそろえられたが、すべて購入すると1,000ドルではとてもきかない。

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 左胸にはFBIのシールが付けられている。外周には、司法省とFBIを示す文字が丸く書かれている。その内側には円があり、その内側に13個の星が円形に配され、赤と白のストライプのFBIの楯とそれを囲む月桂樹の葉、その下にはFBIのモットーであるFIDELITY BRAVERY INTEGRITY(忠誠・勇気・高潔)が白い巻物の中に書かれている。

 FBIの本来のシールには、さらに、この外周を囲む金色のぎざぎざの縁取りがある。それは、困難な目標に対して永続的に挑戦するFBIの価値を示すものとされている。

 13の星は、アメリカ合衆国を最初に構成した13州を表している。月桂樹の葉は46枚あり、これはFBIが設立された1908年時点でアメリカ合衆国を構成していた州の数に相当する。なお、ストライプの赤は勇気や力を象徴し、白は潔癖や真実を象徴している。

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 サイズはSがちょうどよかった。
軽量なのに防寒性能が高く、長らく冬場に、もっぱら室内で愛用している。

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 金曜日の朝、会期中親しくなった人たちに別れを告げて、アカデミーを去ることになる。アメリカ国内を移動する人は、主にワシントン・ナショナル空港行のバス、国際線を利用する人はワシントン・ダレス空港行のバスに乗ることになる。ナショナル行のバスは何台も出たが、ダレス空港行は1台で、乗客も数人しかいなかった。

 バスの出発を待っていると、二人の若い女性エージェントが乗車してきた。二人は互いにひとしきり話した後、訳者の方を振り返り、何のコースの受講生か聞いてきた。説明したら、女性エージェントが返した言葉の一部“You forensic”の言葉が耳に残った。

 その後、これをメールアドレスに使用することになった。

 
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