訳者の私的画像集30


アルフレッド・ビアゾッティの修士論文

 アルフレッド・ビアゾッティ(Alfred A. Biasotti)は、アールの愛称で親しまれた、発射痕・工具痕鑑定のエキスパートである。彼が提唱した線条痕の連続一致本数(CMS-Consecutively Matching Striae)を用いた判断基準は、線条痕の異同識別の分野で、最初に提唱された客観的な判断基準として有名である。

 アールは、このCMS理論を、1959年1月号のアメリカ法科学会誌(Journal of Forensic Sciences)に公表している。その内容は1957年3月に、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市で開催されたアメリカ法科学会で発表された。その講演の基となった研究は、1952年2月に、カリフォルニア大学バークレー校に提出された彼の修士論文である。

 アールは1925年8月22日に生まれた。訳者の母親と同じ年の生まれである。訳者を、本当の息子のようにかわいがってくれた。沢山いた子供たちが皆成長して家を出てしまっことも、その理由の一つだったようである。第二次世界大戦のときは、空軍でB-26爆撃機の操縦士、射撃手、爆撃手として、前線で日本軍と戦ったといい、その時のことは何度か話してくれた。アールは20歳で終戦を迎え、その後、カリフォルニア大学バークレー校に進学した。CMSの研究は、アールが25歳頃の業績で、訳者が生まれた頃に行われた研究であることを考えると感慨深い。

 発射痕の鑑定者の多くが経験しているのだが、1日中鑑定作業に忙殺される一方で、その作業の裏付けとなる理論を先輩から教えてもらうことはほとんどない。それに疑問を持って、鑑定作業を日中に片付けてから、アールは夜間に研究してこの論文を仕上げた。

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   アールが29歳の時に、カリフォルニア大学バークレー校に提出した修士論文の未製本のコピーが12部保管されていた。それらをジョン・マードック(John E. Murdock)が製本し、訳者に寄贈してくれたのがこの本である。

 背表紙には、「BULLET COMPARISON     A STUDY OF FIRED BULLETS STATISTICALLY ANALYZED(弾丸の比較 発射弾丸の統計的解析)」のタイトルに「Biasotti」の名前と「1955」と金文字で書かれている。

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 表紙の見開きの部分には、ジョンが達筆な文字で、私に向けた贈呈の言葉を書いてくれている。

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 さらに丁寧なことに、ATFのレターヘッドのある手紙まで添えられていた。

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 中身は、アールが1955年にタイプした修士論文のコピーである。

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 写真は、セピア色に変色しているが、ゼロックスコピーとは異なり、細かい部分まで表現されている。アールが昔の機材で苦労して撮影し、現像焼き付けしたものを、さらに写真撮影して、引き伸ばしたものである。

 訳者は、この論文のゼロックスコピーを、アールと初めて会った時に、アールから直接頂いていた。しかし、当時のゼロックスコピーでは、写真は線画のようになってしまっていた。
 


  見開きに書かれたジョンからの言葉は以下のとおりである。

Presented to -
Tsuneo Uchiyama,
In recognition of his significant
Contributions toward establishing
Criteria for the Identification in general.
Al Biasotti - not only really appreciated
Your research but truly valued you, as do I, as a friend.

      John Murdock
       Oct 27, 2003
    Walnut Creak, California
       U.S.A.
Copy #10 of 12
April 2003


あえて拙訳をすると、

この本を内山常雄に贈呈する。
痕跡の異同識別の一般化された判断基準を確立する上で、
彼が果たした重要な貢献を高く評価するからである。
アール・ビアゾッティは、あなたの研究を本当に評価したばかりでなく
あなた自身を友人として評価していた。私があなたを友人として評価しているように。
    ジョン・マードック
     2003年10月27日
  ウオールナット・クリーク、カリフォルニア
    アメリカ合衆国

12冊中の10冊目
2003年4月

また、ジョンからの手紙は以下のようであった。

10/27/03
Tsuneo:
It gives me great pleasure to present this bound copy of Al’s thesis to you. You are one of the fields foremost thinkers and as such, truly deserve a copy. I only had twelve copies found and I have handed them out in no special order.
Many thanks for all that you have done for our field. Please note that following p.97, there is a preliminary report that Al did in 1951. Thought that you might find this early report of special interest.
I hope that all is well with you and your family. See at AFTE 2004, I hope.

           Sincerely
           John Murdock

2003年10月27日
常雄
 アールの理論をまとめたこの本をあなたに贈ることに、私に大きな喜びを感じる。あなたは、この分野の思想家の第一人者であることから、この本を受け取るに真に値する。私の手元には12部しかなく、順不同で送ることにした。
 あなたのこの分野での貢献に心から感謝する。97ページ以降には,アールが1951年に書いた中間報告書を綴ってある。この初期の報告書があなたの興味を引くに違いないからである。
 あなたとあなたの家族が順調に過ごしていることを願っている。2004年AFTEセミナーでお会いできることを願っている。
       敬具
       ジョン・マードック


 訳者がアールと初めて会ったのは、1987年にシアトルで開催されたAFTEのセミナーの会場である。話したいことがたくさんあるからと、アールは食事の時間も惜しんで、同伴の夫人を置き去りにして、1日中付き合ってくれた。その横には、ジョン・マードックがいつもいて、3人で朝昼晩の食事時にファーストフードを片手に、論議したことを今でも覚えている。

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 1989年秋には、FBIと合同で発射痕の判断基準策定研究会を開催し、長時間の討議を重ねた。これはその時のスナップ写真である。右側がアール、左側はAFTEの第32代会長のビル・モリス(William H. Morris)である。入り乱れた意見の中で、皆、少し疲れ気味である。このメンバーは、日本のように、前日に大酒を飲んで会議では寝ている、というような人物はいなかった。

 アールは65歳を過ぎても、カリフォルニア州の司法省で仕事をしていた。それまで元気だったアールがパーキンソン病になったのは70歳ころだったと思う。手足が震えるようになり、もともとかすれ声だった言葉が、さらにはっきりしなくなった。それ以上に、私の話す分かりにくい英語を理解しようとする気力が衰えてこられた。

 それでも、亡くなられる前年の1996年7月に、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたAFTEセミナーには、夫人と一緒に参加されていた。それまでの体格の良かった姿が見る影もなく衰えていた。AFTEのセミナー期間中であった7月14日の日曜日の昼過ぎには、会場近くの大通りでサーカスパレードが開催された。AFTE参加者専用の観覧席が特上の場所に用意されていて、アールと並んでパレードを見学した。その時は、仕事の話は一切せず、サーカスのことだけ話した。隣には夫人が座っていて、アールの面倒をいろいろ見ていた。それが、アールとゆっくり話した最後の機会となった。

 アールはその翌年の6月24日に亡くなられた。72歳になる2か月前だった。ジョンから連絡が入った。夫人宛にお悔やみの手紙を書いた。その年の7月にメリーランド州アナポリスで開催されたAFTEのセミナーの際、ジョンから、アールの夫人パトリシアが、私からの手紙を大変に喜んでいたと話してくれた。

 アールのところにクリスマスカードを贈ると、夫人のパットからその年の家族の様子を、便箋2枚にびっしりタイプされたクリスマスメールが送られてきた。大家族で、確か子供が5人、孫が10人以上いたと思う。その年に、それぞれにあった変化と、いつまでたっても子供のことを心配している親心が綴られていた。転職、病気、結婚、離婚、孫の進学、と心配は絶えないようだった。

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 1989年のFBIでの会議の帰途、アールのお宅に少しだけお邪魔した。大家族が住むのに十分の広さの敷地に広い家だった。アールはカントリー・ボーイとあだ名されるだけあって、その広い土地で農耕を趣味としていた。子供たちが成長して全員家を出てしまったため、その広さを持て余し気味のようであった。夫人の他には、大きな犬と黒い猫だけだった。家の中でパチパチ写真を撮るのは失礼と思い、ほとんど写真は撮らなかった。その猫が、たまたま私のところに寄ってきたので撮影したのが上の写真である。足の先だけ白いので、スニーカーという名前を付けたと聞いた。

 2000年頃だったと思う。パットから突然手紙が来て、あの大邸宅から小さな家に移ったこと、広島と長崎を訪ねたことがしたためられていた。キリスト教の団体旅行なので、来日中に、こちらには連絡しなかったとのことだった。

 



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